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イエス・キリストの福音(ゴスペル)とは? 

初めに

あなたは特別、あなたは尊いのです。そう思っておられるのはこの全宇宙を創られたお方、神様です。そして、あなたも、人間一人一人を創られた神様を知ることができると聖書は言っています。 

この世は神様によって創られた。
「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)

私たちは一人一人神様に創られた。

「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。あなたは私に奇しいことをなさって恐ろしいほどです。」(詩篇139:13-14)

 

私たちを創られた神様は私たちをもっともよく知っておられます。(詩篇139:1-3)

以下の四つのポイントは、私たちが神を個人的に知り、神が約束されている充実した人生を体験する上でたいへん役に立つものです。

 


1.神は私たちを愛しておられ、個人的に神を知ることができるように、私たちを造ってくださいました。

神の愛

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは彼を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。」(ヨハネ3:16)

神の計画

「その永遠の命とは、彼らが唯一の真の神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)

では、私たちが神を知る上で、妨げとなっていることは何でしょうか?


2.人には罪があり、神との間に深い断絶があります。そのため神を知ることも、神の愛を体験することもできなくなっているのです。

人には罪があります

「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない。」(ローマ3:23)

人は本来、造り主である神と交わりのできる存在として造られました。けれども、神の命令に背き、神から孤立した、自分勝手な道を歩むことを選び取りました。それで、神との交わりが壊れたのです。聖書でいう「罪」とは、神に反逆したり、神を無視したりすることに現れる、人の「自己中心」のことです。

人には神との深い断絶があります。「罪から来る報酬は死(神との霊的な断絶)です。」(ローマ6:23)

 

聖い神と、罪ある人間との関係は越すことのできない大きな溝が、両者を隔てています。人は、意識するしないに関わらず、良い人になろうとしたり、哲学を追求したり、宗教をやったり、様々な努力をして、神を求めたり、神との関係を築こうとしています。けれども、人の側からは、決してこの溝を埋めることはできません。

次の第三のポイントが、この溝を埋める唯一の道について説明しています。

 


3.人の「罪」のために、神が用意してくださった唯一の解決が、イエス・キリストです。私たちは、イエスを通して、神を知り、神の愛を体験することができるようになります。

イエスは、私たちの身代わりとして死なれました。

「私たちがまだ罪人であった時、キリスト(イエス)が私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにされました。」(ローマ5:8)

イエスは、死から復活し、多くの目撃者がそれを証言しています。

「キリストは...私たちの罪のために死なれ...葬られ...三日目によみがえられ...ペテロに現われ、それから十二弟子に現われ...その後、500人以上の人々に、同時に現れました。」(Iコリント15:3-6)

イエスは、神に至る、ただ一つの道です。

「私が道であり、真理であり、いのちなのです。私を通してでなければ、だれ一人、神のもとに来ることはありません。」と、イエスは言われました。(ヨハネ14:6)

 

神は、ひとり子、イエス・キリストをこの世界に送られました。それは神と人の間の溝を埋めるためでした。そして、本来私たちが、自分の罪のために受けるべき死の刑罰を、イエスが、十字架上で身代わりに受けてくださったのです。

これらの事実を知るだけでは十分ではありません。次の事はもっとも大切です。

 


4.私たちは、それぞれ個人的に、イエス・キリストを、罪からの救い主、人生の導き手として迎え入れる必要があります。そうすることで、私たちは個人的に神を知り、神の愛を体験するようになります。

私たちは、イエスを迎え入れる必要があります。

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子供とされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12)

私たちは、信仰によって、イエスを迎え入れます。

「あなた方は、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物(プレゼント)です。行いによるのではありません。誰も誇ることのないためです。」(エペソ2:8~9)

私たちは、イエスを迎え入れる時に、新しく誕生します。

(ヨハネ3:1~8参照)

私たちは、一人一人の決断によって、イエスを心に迎え入れるのです。

「見よ、私(イエス)は戸の外に立ってたたく。誰でも、私の声を聞いて戸を開けるなら、私は彼のところに入り、彼と共に食事をする。」(黙示録3:20)

イエスを迎え入れるとは、まず、自己にばかり向いていた心を神に向き変え(悔い改め)、次に、自分の心に来て下さり、すべての罪を赦し、あなたを造り変えてくださるイエスに信頼を置くことです。イエスが神の子であり、私たちの罪のために死んでくださったことを、頭で理解するだけでは十分ではありません。また、どんなに感動したとしても不十分です。私たちは自分自身の意志で、イエスを信じ、迎え入れる決断をしなければなりません。

次の二つの円は、二種類の人生を表しています。

 

自己中心の生活

: 自我が心の王座を占めている。: キリストは心の外にいる。

 

キリスト中心の生活

: キリストが心の王座を占めている。: 自我がキリストに従う。

 

あなたは、今、どちらの人生を歩んでいるでしょうか?あなたの人生として、どちらの人生を、お望みになりますか?

イエスを迎え入れるには次のようにします。

 


あなたも今、信じて祈ることによって、イエスを個人的に迎え入れることができます。

(祈りは神と話すことです)

神は、あなたの心を知っておられるので、あなたがどのような言葉で祈るかよりも、どのような心で求めているのかを見ておられるのです。イエス・キリストを受け取るのに、以下のような祈りをお勧めします。

イエス様、私はあなたを個人的に必要としています。私の罪のため、身代わりに死んでくださりありがとうございます。私は今、心の扉を開き、私の罪からの救い主、人生の導き手として、あなたをお迎えします。私のすべての罪を赦し、永遠の命を与えてくださりありがとうございます。私の心の中心で私を導き、あなたが望むような者に、私を変えてください。

この祈りは、あなたの心の願いを表しているでしょうか?

もしそうなら、今、祈りましょう。

イエス・キリストは約束通り、あなたの心に来てくださいます。

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